「障がい者への過剰な配慮は、無意識の差別だと伝えたい」—— 健常者から障がい者になった僕が思うこと

「障がい者に配慮した世界をつくろう」「障がいがハンディキャップにならない世の中にしよう」。そうしたポジティブな声が聞こえてくることもありますが、僕には、それが世間の本音なのか分かりません。

障がいを持つ誰もが「自分らしく」生きられる“隔たりと偏見のない社会”を実現するには、まだまだ世間の理解と正しい情報がが足りていないと思います。

本企画「障がいと私たちをめぐる往復書簡」では、僕と誰かの対話を通じ、企業と個人、健常者と障がい者、それぞれの飾らない本音を、みなさんに届けていきます。

第一回のテーマは「障がい者への過剰な配慮」について。話せそうで、話しにくいこのテーマについて、僕からみなさんに意見を発信します。

障がい者に“間違った配慮”をしていませんか?

みなさんに質問があります。障がい者に対して、なにかしらの配慮をした経験はありますか?

……きっと、一度ならずあるのではないかと思います。特に、同僚に障がいがある方がいる場合は、そうした機会が多いのではないでしょうか。

ですが、それが“間違った配慮”になっている可能性について考えたことはありますか?

たとえば仕事の場面で、責任のある業務をまかせず、難易度が低い業務ばかり担当させてしまうこと。たとえば日常の場面で、白状を持って立ち止まっている人がいたとき、道に迷っていると決めつけて声をかけてしまうこと。

配慮したつもりが、された側へ疎外感を与えたり、恐怖を感じさせることになってしまうことがあるんです。

もちろん障がいがあると、配慮を必要とする場面が多くあります。ですが「障がい者」と一括りで考えてしまうと、間違った配慮をしてしまう可能性があります。

配慮をする気持ちは、優しさから生まれてくるものだと思います。しかし、先入観で決めつけて配慮を押し付けるのではなく、その人がどの場面で、どんな配慮が必要なのかを確認した上で、行動に移すべきだと僕は思います。

過剰な配慮は、無意識の差別

過剰な配慮は、受ける側からするとある種の差別であるように感じます。

配慮が不要な場面でも、「障がいを持ってるから」という理由で手を差し伸べられると、障がい者であることを周りから押し付けられている感覚になるのです。

私の場合、障がい者であることが見た目では分からず、気づかれることがほとんどないため、配慮を受ける機会はそう多くありません。

しかし、私が障がいを持っていることを知っている人の場合、軽く運動するときや少しお酒を飲むときでも、いつも「大丈夫?」と声をかけてくれます。

私ですらそのような機会があるのですから、周りから見てすぐに分かる障がいがある場合、あらゆる場面で“過剰な配慮”を受けていることが想像できます。

心配してくれることはとても嬉しいです。しかし、自分ができること、してはいけないこと、手伝ってほしいことは自分が一番理解しています。

それに、配慮する側も気を使い過ぎていたら疲れますし、配慮した分だけ負担がかかるでしょう。だから、「頼まれたら助ける」くらいのスタンスが、お互いにとってちょうどいいのではないかと僕は思っています。

過剰な配慮が生まれる背景にあるのは、「健常者」と「障がい者」という分類で人を見る、“無意識の差別”です。

たとえば、隣でいつも通り仕事している同僚に、いきなり「仕事大丈夫? 何か手伝おうか?」と聞くことはないでしょう。もしそんなことを言われたら、「自分の働きが不十分に見えたのか」などと、いい気分はしないはずです。……でも、障がい者にはしてしまう。

障がい者と健常者の違いは、障がいを持っているか持っていないか、ただそれだけ。そして健常者も障がい者も、できることやできないことは人それぞれ。もちろん必要な配慮も、一人ひとり違います。その共通認識があれば、過剰な配慮がなくなるはずですし、それが生む疎外感を与えずに済むはずです。

私も障がい者になる以前は、一括りに「障がい者」という見方をしていました。ですが、自分が障がい者になり、そして仕事を通して多くの障がい者の方とお話させていただいたことで、障がいは全くもって特別な存在ではなく、当たり前の存在であることを知りました。

適切な配慮は、意思疎通から生まれる

これまで多くの方にお話をお伺いしてきて、障がい者への過剰な配慮について、多くのご意見をいただきました。

たとえば、脊髄損傷により車椅子を利用している久世さんはこのようにおっしゃっています。

障害者だからといって腫れ物扱いしないでほしいですし、逆に障害者も「障害があるから」と自分を卑下することも、気を使いすぎる必要もない。—— 「障害者になって、人生の選択肢が増えた」——車椅子生活がくれたのは、“言い訳しない強い心”



また、CCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)に勤務されている中路さんも、以下のようなお考えをお持ちです。

もちろん障害がハンデになることはありますが、できないことがあるのは、人間なら誰しも同じこと—— 障害を受け入れた私と、受け入れられなかった私——CCCで働いて分かった、幸せなワークスタイルの築きかた



障がい者であることを理由に、特別扱いする必要はないのです。僕もそうですし、僕以外の障害者の方にも、「必要な配慮だけをしてもらえれば嬉しい」と思っている人は少なくないはずです。

もちろんそのためには、障がい者側も自分から発信をすることが大切です。その点について、前述の中路さんはこのようにお話しされています。

目が悪ければ、メガネが必要ですよね。眼科に行ったり、メガネ屋さんに行ったり、何かしらの行動をします。障害を自己申告することも、その延長線上だと思います。障害を持っているのに、補助をただ待っているのは、目が悪いのにメガネをせず、「目が見えなくて大変だ」と言っているのと同じこと。—— 障害を受け入れた私と、受け入れられなかった私——CCCで働いて分かった、幸せなワークスタイルの築きかた



自分の判断のみで、他人に対して適切な配慮をすることは、非常に難しい。適切な配慮を受けるためには、自分から何をしてほしいのかを伝える必要があります。

ただ待つのではなく、どんな手助けが必要なのかを自分から伝える。そして手助けを頼まれた側は、それを快く受け入れる。そうすることで、”適切な配慮”が生まれるのではないでしょうか。

互いに向き合い、理想の環境をつくる

過剰な配慮はされる方にとっても、する方にとってもマイナスになります。

もちろん、「困っていそうだな」と判断したときは、積極的に声かけをしていただければと思いますが、基本的には「本人から頼まれたときに手助けする」くらいのスタンスがちょうどいいと思います。

そうすることで、配慮する側も必要以上に気を使う必要もなく、される側も自分らしく過ごせるようになり、双方にとっていい関係につながるはずです。

そしてわざわざ「障がい者」「健常者」と分けず、一人一人がお互いに助け合いながら生活していくことが、理想の環境なのではないでしょうか。

これが、過剰な配慮に対して、僕が感じていることです。障がい者を特別視してしまう気持ちを分からなくもないですが、それは無意識の差別になっていることを理解してほしいです。その現状を攻め立てたいわけではなく、理解することで、たしかに存在する壁を壊していけたらなと思っています。

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